はじめに-このサイトの趣旨

世間にて真怪にあらざるものを真怪と定め、偽怪も誤怪も物怪も心怪も皆真怪の待遇を受けている有様である。(中略)その資格を判然と区分して妖怪の名分を明らかにしようというのが、余の妖怪研究に取り掛かった訳である。 

井上円了『真怪』

僕はよほど前からこういう志を抱いて、なるべく広く読んで、その中の直覚的の本当の物、面白く読ませる小説的に書いたものでない珍しい物だけを、現に写し取りつつあるのです。

柳田國男『幽冥談』

このサイトについて

このサイトは大きく分けると2つの目的を持って作成されている。

  • 実話怪談をはじめ奇怪なものを主題とした本を書評すること
  • 私の思索するところの心霊観を断片的ながらも記録すること

いずれも私にとっては長年思惟を重ね構築してきた独自の世界観であり、それを明確に文章にして公開することが必要ではないかと思い、今回こうやって立ち上げた次第である。
したがって、このサイトにおける書評や心霊談義はあくまでも私個人の世界観に基づくものであり、絶対的に正しいかどうかを論ずることはしないつもりである。
ただ、決してでたらめや支離滅裂な思考で唱えているわけではなく、少なくとも私自身の中で明確な整合性を有し、理性を基盤とした論考として展開する。
いずれは論を展開する中で少しずつ明らかになっていくだろうと思うが、レギュレーションと言うべきものを緒言として明記したい。

《実話怪談》書評について

《実話怪談》を書評する目的

私が最初の書評サイトを立ち上げたのは、2001年の6月のこと。《実話怪談》を本腰入れて読みだしてから10年ばかり過ぎた頃である。生来“あやしいもの”が好みだった私が安価で手に入る怪奇本をあらかた読み尽くした先にたどり着いたのが《実話怪談》であった。
それまで《実話怪談》に手をつけなかった理由は、はっきり言ってしまえば「質の悪さ」に尽きた。「本当に起こった幽霊話」みたいなものは児童書でそこそこ読んだが、そのほとんどは一級の怪奇小説と比べると雑な印象もあり、また“本当にあった”わりには事実を書いた書物とは言い難い胡散臭さを覚えたため、平成時代になるまでは敬遠し続けていたのである。
ただ本格的に読み出したからそれが解消されたわけではなく、却ってその胡散臭さ即ち創作的な装飾がむせかえるほど鼻につくようになった。別途で心霊研究にも触手を伸ばしていた私にとっては、どうにも納得がいかないことが多々あった。そういう中で「これは全部で創作だ」とか「このオチはわざと作ったな」とか考えて読む癖がついた。要するに《実話怪談》の真贋を勝手に鑑定する読み方が身についてしまったのであり、それを問う形で公開したのが、最初の書評サイト【冥帝文庫】であった。

ということで、私にとって《実話怪談》を書評することは、とりもなおさず「真贋を見きわめる」作業である。幸いなことに昨今はそこまで酷いものに出くわす確率はないので影を潜めているが、ひとたびそのような不純な存在を発見すればたちどころに情け容赦なく牙を剥くことは明記しておきたい。

書評の基準について

上のような経緯から書評を始めることになった手前、私の《実話怪談》に対する評価の基本は怪異自体の稀少度であり、それを活かすための作者の書きぶりにある。今までに見たことも聞いたこともないようなとんでもない怪異が書かれた作品は、少々危なっかしい文章であったとしても、抜群に評価は高い。逆にありきたりな怪異であれば、いくら作者が技巧を凝らして作品として成立させようとしても、《実話怪談》としての評価は落としてしまう。
勿論、文章の巧拙は「読みやすさ」に直結し、また洗練された文体は怪異の内容を活かすための「雰囲気」を生み出す重要な要素であるため、書きぶりについての評価を無視はしないし、いわゆる文芸作品の書評ほどではないにせよ、特筆すべきと思えばきちんと文体や構成についても言及する。

特にこれから始めるサイトでは【ネタ重視】の方針であることを宣言したい。
今までの展開してきた書評サイトとは異なるコンセプト即ち「心霊探究のエビデンスとしての実話怪談」という側面に焦点を合わせているが故である。そのあたりの状況を察して書評を読んでいただければ幸いである。

評価方法について

今までいくつかの書評サイトやブログを持ってきたが、そこでは必ずと言っていいほど評価の数値化をおこなってきた。しかしこのサイトではそのような数値化や段階をつけるようなことは極力やらない。着目すべきポイントを列挙するだけの評にとどめ、最終的な判断は実際に本を手にして読む人に委ねたいと思う。
書評の構成についても「総論」と「各論」に分けて、本全体に関連する事柄(全体の傾向や構成の妙について、あるいは作家論等)は「総論」として、各作品に対する評価は「各論」として、それぞれ明確に分けて書評したい。元々文章が小難しくて読みづらいので(キャラなので直す気はない)、少しでもレイアウトでそのあたりをカバーしようとは思う。
ついでのことであるが、かつて【超-1】(加藤一氏と竹書房が主体となって行った、怪談作家発掘のコンテスト)の講評をやっていて痛感していた、各作品を評する際に毎度のように一般論を長々と書き綴る煩わしさを解消したい。そのため一般的な怪談論(これもあくまで私個人において“一般的”とされる)を書評とは異なるカテゴリートピックとして別途論ずることにした。

心霊談義について

私にとって《心霊》とは

私は物心ついた時から【心霊肯定派】である。
特に誰かの影響を受けたわけでもなく(私の親戚やリアルの知人で霊を信じる人間は誰もいない)、気が付いたら「霊がいる」ことは当たり前であった。それは空気と同じ、見えなくとも感じなくとも存在しているという感覚であった。だから、その存在論を論議する必然性はあまり感じていない。端的にいえば「いるのだから仕方ないだろ」というスタンスに近い。
ただし霊の目撃談なり怪奇現象との遭遇については、非常に懐疑的である。私にとって《霊》とは、人間の知覚では捉えることの出来ないもの、それ故にそれらを見えたり感じたりすることが出来るはずもなく、特殊な人間がごく僅かにいたとしても、そんなに数多く証拠となるような事象は出てこないと考えている。信じているが故に簡単に起こり得ない、というのが偽らざる基本スタンスである。
さらに言えば、人間が生まれて死ぬまでの間一切《霊》の存在を意識しなくても、何不自由なく生きていけるとさえ思っている。この地上での営みの中で、とりたてて《霊》が必要不可欠なことなど何もない。少なくとも知ったから何かが変わるということはない。

この役に立たないと信じている《霊》に関する諸々の事柄を解き明かそうという私の意図はどこにあるのか。
《霊》の存在は、人間においては《魂》であり、世界全体においては《神》につながる。この人間が知覚出来ないものの存在を客観的に証明出来る事柄を集めることは、特に《魂》の問題を明らかにする。即ち「人間いかに生きるべきか」の解答であり、ひいては道徳律の問題の解答である。
非常に茫洋としているが、私が今現在《霊》の存在証明に取り組む目的は、まさしく《霊》そのものへの興味にとどまらず、その存在を超えたところにある《魂の不滅》の問題の解を得るところにある。

いわゆる“精神世界”へのスタンス

《霊》について語るとなると、どうしても避けて通れないのが宗教的な話題である。特に新興宗教とかいわゆるスピリチュアル活動との関連性については一言申し上げておく。

  • 私の探究する《霊》の問題は、あくまで個人の道徳の問題である
  • 私については、我が国におけるごく一般的な仏教徒である
  • 新興宗教特にカルト的なものは受け付けず、語り合うトピックも持ち合わせない
  • 世間に喧伝されるスピリチュアル活動はただの経済活動(別名金儲け)とみなしている
  • 私自身が展開する《霊》に関する考えを用いて経済活動を行う意志は一切ない
  • 私の展開する《霊》に関する考えを、己を利する手段として他者が使うことを認めない
  • 信教の問題については相互不干渉であり、議論には応じない

以上をこのサイトに関わる序論とする。