沖縄怪談 耳切坊主の呪い

令和時代

小原猛:著 竹書房怪談文庫
2022年10月6日 初版第一刷発行

全体評

沖縄の怖い話といえば、現在のところ著者の小原猛氏の右に出る者はいないと断じても異論はないだろう。地元沖縄の出版社を始めとする著作物も多数、書籍以外でも様々な場で多くの怪異譚を発信し続けており、しかも氏本人が集めた体験談だけではなく、沖縄地方の伝説や民俗なども多々収集・紹介している、まさに沖縄の怪異譚の第一人者である。

竹書房でも何冊かの著書が出ているが、「沖縄怪談」という新しいシリーズの第一作としてこの本は出されている。いわゆる[視える]人の体験談、沖縄の神々の話、キジムナー(妖怪)譚、その他体験談、呪いにまつわる話と5つの章からなる構成で、本土とは違う文化だと思わせる伝説から、現代沖縄で起こった怪異譚まで広範囲に網羅されており、オール沖縄然とした濃厚な1冊になっている。
その中で一番驚かされたのは、実話怪談と言える現代の怪異譚と、時代が古すぎて明らかにリアリティーを失っていると言える伝説的な物語が、特に分け隔てられることなく並んで紹介されている点である。個人的には、体験者が存命あるいは体験者から直接話を聞いた者が存命している話(実話怪談)と、創作ではないにせよ体験者の証言から時代的に遙か遠く離れて数次にわたる伝聞かが進んだ話(伝承怪談)とは区別すべきという意見を持っているが、この作品ではこの渾然一体となった雰囲気が却って沖縄の習俗文化が今なお維持されているという印象を強くさせると感じた(もしかすると私自身が持っている沖縄に対する固定イメージのせいかもしれないが)。もっと具体的に言えば、今でもキジムナーはどこかで生きているし、沖縄の神々は今でも我々のそばでじっと人々の生活を見つめている、そういう感覚にさせてしまう効果をもたらしていると言える。実際作品内では、伝承に続いて同じような怪異が現代でも起こっていることを示す流れがいくつか見受けられ、またそれらを体験者自身がごく当たり前のように理解して受け入れている。まさに長い時間の中で連綿と精神が受け継がれ、今なおそれが継続している文化の豊穣さ故の構成の妙と言うべきなのかもしれない。

この古くからの伝承怪談と現代の実話怪談が混ぜ合わさって展開する構成が特徴的であるが、それと同時に印象的だったのは、体験提供者の一人であるユタの半生に関する話である。
このユタに限らず、霊的なものを感知することを生業とするいわゆる霊能者にまつわるエピソードは、その体験が短期間独立して語られる場合は実話怪談として成立するが、それが長期間にわたって語られるとなると、どうしても怪談的な要素が薄れていくように思える。普通の人から見れば[視える]ことは特殊な能力であるが、霊能者本人からすれば[視える]ことは日常であり、それをコントロールしながら日々付き合うしかない“個性”でしかない。それ故に様々な霊との遭遇は、霊能者の人生においてはまさに生身の人間とのつきあいと変わらない感覚であり、その中の特徴的なトピックとは彼らの人生観や生き様に多大な影響を与えた内容になるのだろうと想像している。つまり霊能者の体験した怪異を長期間にわたって書き綴れば、その人物に影響を与えた霊的存在を網羅的に取り上げることに他ならず、自ずとその人物の半生記と変わらないものになるはずであり、一般的な怪談とは異なるニュアンスになるのだと考える。
ただ、常人とは異なる能力を活かして生きてきた人間のエピソードは、劇的であり同時に心揺さぶるものがある。次々と怪異が起こるものの決して“怪談”であるとは言いがたい、しかし翫味すればするほどその題名の持つ意味の深さに気付かされ、このエピソードを敢えて実話怪談の本の中に差し込んだ小原氏の意図を掴み取らねばならないと感じた。
《人はどのように生きていくべきなのか》という命題に対する教訓的回答として、一部の怪談話が存立することは疑うべくもない事実である。この命題に沿った怪異譚として、ある意味ユタとして生きていかねばならなかった一人の女性の半生を記録し、それを後世へ残す。巫者としての負の部分をも出来る限りさらけ出した怪の物語を書くことで、この記録が連綿と続く精神の一つのトピックとして受け継がれていくことを作者が意志したのだと思いたい。それ故に、この一冊は“沖縄のご当地怪談”よりもさらに高みにある、沖縄の精神文化の一端を紹介したものであると言えるだろう。

沖縄怪談 耳切坊主の呪い 琉球奇譚 (竹書房怪談文庫)
現地在住の著者が克明に記す 沖縄限定ご当地怪談、新シリーズ始動 沖縄の怪談・妖怪・ユタ・ウタキなどを取材して発信し続ける、沖縄怪談のオーソリティ・小原猛の新シリーズ開始。 ・通勤途中に見かけた奇妙なモノ、それは人の命を取るものだというが…「ピトゥトゥルマジムン」 ・ムカデを神の使いと崇める家に養子にきた男がある日…「ム...

各作品について

ネタバレがあります。ご注意ください。







ピトゥトゥルマジムン
上にも書いたが、過去の伝承とされてきた怪異譚の内容と全く同じものが、現在の実話怪談として顕現する代表的な話である。いわゆる邪神の類であるピトゥトゥルマジムンが那覇の街で目撃され、実際にその場所で災いをもたらしたという、伝承通りの展開が再現されるところにこの話の希少性を感じる。まさに怪異の伝承が連綿と続く瞬間を目の当たりにしてしまった感が強い。さらに言えば、過去の時代から飛び出てきたような邪神が散髪屋のポールに巻きついているシチュエーションギャップが奇妙なリアリティーさを生み出しており、彼岸と此岸の境界の緩さというか、絶妙な地続き加減さが何とも言えない怖さや面白さを醸し出していると言えよう。結構危険な状況なのだが、それでいながらのほほんとした雰囲気もある、作品の端緒として全体の印象を位置付けるには適切な話だったように思う。

マウス
この怪異譚も、その前に置かれたワーマジムン(豚の妖怪)の伝説からの流れで語られる実話怪談という位置付けであり、伝承怪談と実話怪談の融合を試みる一連の作と言える。しかしこの怪異譚は、単独の作品としても相当な恐怖を読者に与えることの出来る内容であり、相当に怖くてグロである。特に取り憑かれた男がクチャクチャとネズミの胎児を美味そうに食らう描写は鳥肌物である。男に取り憑いた霊の正体が本当にワーマジムンであろうがなかろうが、これだけで十分上質の実話怪談となっている。ただ欲を言えば、前に置かれた伝承怪談が、ワーマジムンに憑依された人間が本当に悪食となるという内容(本当のところどうなのかは私も今ひとつ知識を持ち合わせていない)であったならば、より強烈なインパクトがあったのではないだろうかなどと思ったりする。

コザのアパート
ジェントル・ゴースト・ストーリーの好編である。少女の霊も虐待死を疑われるが真っ直ぐな性格を持っており、それに輪を掛けて体験者自身の気質の良さが滲み出てきている。この心優しき人間と霊の奇妙な交流が様々な結果を見せていく展開は、実に清々しい気分にさせられる。さらに伊豆で拾ってきた女の霊まで部屋に棲み着いてしまう漫画のごとき展開は、思わず笑ってしまうほどほっこりとした印象すらある。ただこのファンタジーのような幽霊譚は、その後日談であるSNSの投稿によって客観的なエビデンスを得ており、体験者の妄想の産物ではないことを裏付ける。それまで全く見ず知らずの関係であった人間と霊がここまで心を通い合わせるという内容の話は、あまり記憶にない。それ故にこの作品は優れたジェントル・ゴースト・ストーリーであると同時に、《霊界通信》の顕著な成功例の一つであるとも言えるだろう。

スクブン
全体評でも語っていたが、これはまさに怪談の範疇を超えた、一人の女性の半生記としての凄味を備えた内容になっている。ある意味壮絶な怪異は起こっているものの、むしろそれよりもその怪異を通じて彼女が獲得した経験知の方にこそ意味があると思わせるだけのものがある。《スクブン(宿分)=宿命》を我が得物と勘違いした時代から、振り回されて翻弄された時代を経て、最後にようやく自らが受け入れていく過程が丁寧に書かれており、それは霊的なものを感知出来ない普通の人間の立場でも十分理解し当てはめることが出来る内容であるだろう。
以上のような意見から、私個人はこの一作を「実話怪談」とは敢えて分類せず、ある一人の女性の得難い経験を書き綴った作品であるとみなしたい。むしろその方が御本人らの意に叶うのではないかと考えている。

その他には
「エギリドリ」(これも現代に蘇る、伝承世界の怪異である)
「チケット」(死してなお規律に厳しい米兵達。それにしても「地獄の黙示録」を見たがるか……)
「ヤチャ坊」(妖怪目撃談としては結構レアなぐらい鮮明な目撃内容になっている)
「ヒンジャーキジムナー」(キジムナーの話の中でも“けったい”と言うべき内容。面白い)
「マブイをひんがす」(オカルト的な内容であると同時に、習俗の面でも興味深い話)
「カラオケ」(これもジェントル・ゴースト・ストーリーとして出色の話)
あたりが印象に残った。