恐怖箱 怪道を往く

実話怪談本

高野真:著 竹書房怪談文庫
2022年11月4日 初版第一刷発行

全体評

実話怪談を書く作法の主たるものの一つに《リアルに書くこと》がある。
体験者の遭遇した怪異をまさしくこの世界で起こった出来事であると担保するために、その起こった怪異を極力客観的に読者に提示することが、怪談作家の役目として最も大切な事柄であると考える向きがあるのは間違いないところである。その手段として、起こった怪異が現実的に判然としたものであることとして明晰に表現することを第一義と各作家は考える。あるいは体験者の誤解や妄想の類ではないことを示すべく、徹底された整合性が敷かれた展開が要求される。さらにそれを押し進めていくことによって、実話怪談は“あったること”としての怪異だけが粛々と提示され、その怪異の体験者自体までも物語から排除することが起こる。この世界にあり得べからざる事象を取り扱うが故に、それが現実に起こったものであることを示すための創意工夫は、怪談作家の腕の見せ所であり、最も呻吟する部分にもなる。
しかし一方で、この世界にあり得べからざる事象であるが故に、それを究極的に再現させることは不可能であるという考え方も存在する。極論すれば、自然科学上の因果律に反して起こる超常現象・心霊現象は再現性がない、ないからこそこの世界にあり得べからざる事象なのであるという考えである。それはたとえ体験者自身が認知した怪異であったとしても、そしてそれをいかに完璧に近い精確さで表現出来たとしても、それを他者に伝達する“言葉”の過程において制限され歪められるとする。
詰まるところ、およそ経験する可能性がないであろう怪異であるからこそ、その客観性を絶対的に要求されるのであり、同時に言を尽くしたところで決してその真相には到達し得ないだろうとされるのである。ここに良くも悪くも実話怪談が持つ「虚実皮膜のあわい」の妙がある。

この《実話怪談のジレンマ》と言うべき問題に対して、作者の高野氏は一石を投じる。氏の主張する『あなたの記憶を、記録する』スタンスである。では、大抵の実話怪談作家が掲げる《怪の記録》というコンセプトとどこが違うのか。
上で示したように、体験者が認知した超常現象・心霊現象は、自然科学上の因果律では説明出来ない、再現性を持たない現象である。それ故に“あったること”として実話怪談で語られる怪異は、全て「体験者の記憶」が頼りとなるのは自明の理である。つまりわざわざ「体験者の記憶を記録する」と銘打たなくとも、作家本人が派手な誇張や捏造をおこなわない限り、許容範囲内において「怪の記録=体験者の記録」という暗黙の了解が作家本人にも殆どの読者にもあると言える。
しかし一方で、起こった怪異に焦点が当たりすぎ、その体験者すらが物語の構成から省略されてしまうことも、実話怪談では頻繁に起こりうる事実である。つまり、体験者の記憶を元に構成される怪異の事実は、その客観性を維持する方便として体験者自身を物語上から排除して、その主観の呪縛から解き放たれようとするのである。そこに「体験者の記憶を記録する」ことが《怪の記録》とは異なる意味を持つ余地が生まれると考えられる。

では、怪異そのものとは関係しない「体験者の記憶」とは何なのか。高野氏の作品を読む中で抽出出来るものは、即ち《体験者の感情》である。
勿論、怪異の現象のみを丹念に綴っていく構成であっても、体験者の感情の変化はしっかりと描かれる。だが、その多くは紋切り型と言うか、物語の展開においてアクセントであったりターニングポイントであったり、要するに怪異をよりインパクトある存在に見せるための一手段として活用される傾向にある。あくまで怪異がメインであり、体験者のリアクションはそれを引き立てる狂言回しの役割を与えられているのみという印象である。
高野氏の作品でも、体験者の感情が言を尽くして語り倒されるということはないし、怪異よりも大きく取り扱われることもない。しかし言葉を選び、怪異と絡ませるタイミングを選び、出来るだけ体験者のその時の感情をクローズアップさせようとする文章の練り方というものを見て取ることが出来る。言うならば、“あったること”を記した怪異の記録の中で体験者が一人の意志ある人間として言動を展開していることを企図したつくりを見せるのである。
特にその印象を強くさせるのは、後半部分――本作中において極めて異質な怪異を起点として繰り広げられる一連の作品群である。再現され綴られる怪異と共に、その時の体験者の深い感情が言葉によって押し寄せてくる感が強く、単純に《怪を語る》ことで怪異を絶妙にトレースするだけではなく、体験者も含めた《怪の場を語る》ことでその怪異が起こった臨場感を読者に突き付けてくる印象である。かといって《怪を以て人を語る》ような文学的な志向でもない。あくまで発現した怪異を中心に据え、それに遭遇してしまった体験者の存在も意識して含めた怪異の場を構築することに主眼を置く。そういう作風を確立することを作者は望んでいるのではないだろうかと、想像する次第である。

各作品について

ネタバレがあります。ご注意ください。







呪詛と復讐
全体評で取り上げていた“極めて異質な怪異”である。しかも異例中の異例と言うべき、冒頭での筆者注で「読み飛ばしても結構」との文言が入る。逆に言えば、そこまでしてこの怪異を伝える作者の意志の強さを感じる。
他の話と異質であるのは、体験者が受けた虐待の内容を具体的に書いている点(それが掲載条件であると注で述べている)。これによって体験者の憎悪の感情は一気に生々しく構築され、まさに「体験者の記憶を記録する」強固な一作になっている。それとは裏腹に、実話怪談であればギリギリのラインまで明かしてくるであろう呪詛の方法(体験者は延々と証言しているらしいが)がばっさりと削られている。この構成を見れば、この話における作者の意図する部分は明確である。
もはや最期まで戻ることがないであろう体験者の歪んだ心を余すことなく描くことがこの怪談の肝であり、この一作をして作者の目的は明晰に体現されたと言って間違いない。

写真
心霊写真にまつわる、二段構えの怪異譚である。相談を受けた体験者の後悔の念が全編を通してジクジクと続くことによって、怪異の連続性や2番目の怪異の後味の悪さを強くさせているように感じる。おそらく“あったること”だけ書くならば、2話構成にした方が合理的であると思うのだが、体験者の感情の揺れがメインならば、一話の中での二段構え構成が理に適っているだろう。体験者の感情面を前面に出すことで、怪異の度合いが強まった好例であると思う。

高田正太郎君の話
このネタを拾った段階で「良くやった!」と快哉の声を上げなくてはいけないほど、稀少な怪異譚。
もはや稀少中の稀少とも言える戦地での怪談であること。さらに昭和時代における狐狸にまつわる数少ない怪談であること。この2点を以てして傑出した怪異譚であると断言出来る。
そして面白いのは、「体験者の記憶を記録する」作品群の中にあって、この作は数少ない“あったること”に徹した書きぶりに感じる。おそらく事実をきちんと整理して、純粋に怪異の記録として後世に残そうという意図があったものと推測する。ある意味、粋な計らいと言うべきか。

二月十六日
究極の「体験者の記憶を記録する」怪異譚である。作者自身が体験者の息子というあまりに身近な存在であるため(ただし最後に1行になってその種明かしがおこなわれる)、敢えて体験者の感情的な言葉を控えめにしている印象だが、逆に小さな怪異にも拘わらず非常に詳細な描写が施されている。だがその細かな描写が体験者、特に母親の当時の感情を如実に語っており、緊迫感のある展開になっている。
もしかすると、この怪異遭遇が作者の怪談観の源流になっているのではないかと思うところもあるのだが、果たしてどうなのだろうか。読者から見れば多分最終作にすべきとは思えないほど小さな怪異であるかもしれないが、体験者にとってはまさに一期一会の、人生に深く刻み込まれる出来事に十分なれる可能性を持った怪異だったはずである。最終話にこの体験談を置くことによって、作者はそういうことを怪談ジャンキーに思い起こさせようとしたのかもしれない。

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