煙鳥怪奇録 机と海

実話怪談本

吉田悠軌 高田公太:著  煙鳥:怪談提供・監修  竹書房怪談文庫
2022年4月4日 初版第一刷発行 

全体評

実話怪談というジャンルの作品には必ず「体験者」が存在する。要するに、書かれている内容は「あったること」として誰かが実際に体験した出来事だということである。ただし書いている本人が体験者でなければならない決まりはなく、むしろ作家とは別にいることの方が多い。自分自身が[視える]体質の実話怪談作家でなければ、たいていの場合、数多くの体験を持った「提供者」と各作家は繋がりを持っていると考えて間違いない。しかしながら、その体験者が作品の中で固有名詞を持って登場することは稀であり、当然どの話を誰が体験したのかという情報はほとんど表に出ることはない。

本作は、直接の体験者ではないにせよ、特定の個人から全話の提供を受け、それを再構成した作品が上梓されている。提供者は、怪談界隈では名の知れた人物、煙鳥氏である。怪談蒐集家であり、自らも語りの分野を中心に作品を披露しているが、テレビ番組や漫画といったメディアでも作品提供をしており、上質のネタを数多くストックしている方である。
おそらく本作は、煙鳥氏が長年蒐集してきた怪談から選りすぐって出してきていると推測出来るので、非常に期待してページを進めた。代表作の1つとも言えるだろう『机と海』をはじめ、全体的に一筋縄ではいかない話が多く見られ、さすがという印象である。料理で喩えるならば、相当の美食家が自分の足で求めてきた食材を集め、料理人に調理を任せて自らも味わうという感じであろうか。

その調理を任せられた2人が、吉田悠軌氏と高田公太氏である。煙鳥氏とは浅からぬ縁を持つことからの起用のようだが、この取り合わせが本作全体に及ぼす影響はとても大きいように思う。
異なるスタイルを得手とする、おそらく両極に完全に分かれてしまっていると言って良い(個人的な正確さで言えば、高田公太という現在の実話怪談界隈で希有な立ち位置にある作家を一方の執筆者に配した)スタイルの持ち主がそれぞれの得手で提供された話に味付けしていくわけで、語りやビジュアルとは全く違った実話怪談文学の面白味を存分に見せてくれていると思う。

最近の単著同様、徹底した取材で得た内容を元にルポルタージュ的で、読者を納得させながら書き進める堅牢な書きぶりで迫る吉田氏。正統派の怪談とはやや趣を異にしながら、実話怪談作家の中で最もリリックな表現で怪談の本質に迫る高田氏。アンソロジーとは異なり2人だけの著者だからこそ、お互いの個性が目立ち、その違いも明瞭に分かる。それぞれが担当した作品を読み比べれば、まさに実話怪談というジャンルの懐の深さが理解出来ると思う。個人的には、それぞれが担当した話を交換してもう1冊出しても十分面白いという感想である(特に最後の2作品は是非とも入れ替わって書いて欲しいと思った)。

ちなみに実話怪談の界隈では、同じネタを元にして作品を語ったり書いたりすることに対しては結構寛容というか、ちゃんと筋を通せば許諾する傾向が強い(既に商業ベースに乗ったネタを除く)。実際怪談会で出てきた話をいただいて書籍に載せるケースもあるし、語りの場では1つのネタを複数の怪談師が同じ会の中で語るという実験的なことも行われている。あり得べからざる出来事故に、その原因や怪異の背景などを考察する余地が非常に大きい。だからこそ解釈や雰囲気などに合わせて1つのネタでも様々なバリエーションが可能という認識にあるためだろう。
ということで、こういう企画も継続的にやって欲しいとう個人的希望がある。勿論、最近では語りで頭角を現した怪談師がそのまま持ちネタを文章化して書籍デビューする機会もあり、すぐに大量にというわけには行かないと思う。1名の提供者の作品を2~3名ぐらいの作家で文章化して書籍として公開することは興味深く、また怪談界隈の裾野を広げる良い機会になるだろう。
今回の企画を立案した高田氏には感謝。機会があれば、是非ともこの形での執筆を続けていただきたい。

煙鳥怪奇録 机と海 (竹書房怪談文庫 HO 544)
稀代の怪談蒐集家(ジャンキー)・煙鳥。 決して表舞台に出ない彼のネタ帳を 二人の手練れが再取材して世に出す、実話怪談界待望の書! 実話怪談の配信者としてネット界で長年暗躍し続けてきた男、煙鳥。 その圧倒的な取材力はマニアの間でも評価が高く、彼の語る怪談は文句なしに面白い。 一方、決して業界の表舞台に出てこない謎めいた存...

各作品について

ネタバレがあります。 ご注意ください。







空き家回り
高田氏を“現在の実話怪談界隈で希有な立ち位置にある作家”と私が認識している最大の理由は、実話怪談の作品でありながら怪異をメインに置くことにこだわりを持っていないと思われるからである。本来であれば、体験中に起こった怪異をどのように見せるかに各作家は腐心するのだが、そことは違う部分に重きを置いて作品を構成し、怪談として成立させるのである。例えば、体験者の性格やその時の心情、あるいは土地や時代の背景などを細かく描写する作家は多いが、その目的はあくまでも“怪異を最大限効果的に見せる”ためのものである。ところが高田氏の場合、どう考えても怪異と直接関係ないような部分に焦点が当てられることがある。
この作品でいえば、ストーリーを推進させているのは「新人社員が感じる先輩社員との軋轢」である。この流れていけば、怪異はあくまでも導火線であり発火点でしかない。「先輩が行けと言った空き家に入ったら人がいたんですが」など、一歩間違えばコントのシチュエーションである(実際2人の会話を眺めていると、緊迫感以上に笑いが出てくる)。
かといって、これが実話怪談を舐めたような作りになっていないところが絶妙であり、怪異は怪異として寸分の隙もなくツッコみどころを潰した書き方になっている。ガチで重すぎてきつい、怖がらせる一辺倒の怪談は苦手という人には、是非読んでもらいたい作品である。

食い違い
怪異の舞台が、須賀川の祈祷師殺人事件(祈祷と称して太鼓のバチで殴り続け6名を死亡させた、犯罪史上著名な猟奇殺人事件)の現場というだけで、怪異としての価値が高い。しかも実際に起こった怪異そのものがあまりにも不可解なものであり、極上の怪異譚であることは間違いない。
同じ現場で何かしらの怪異を目撃しているにもかかわらず、実は全く違うものを見ていたという怪異譚は往々にしてある。しかしこの作品では体験の日時が違うにせよ対象が家であり、その外観が全く違うように見えることはあり得ない。しかも屋内の目撃体験の齟齬については決定的な物証である写真まで存在している(そして2人体験者以外にも、雑誌で公開された内部写真という“第三の物証”を用意するところが、吉田氏の凄味である)。それ故にこの怪異は極めて稀少なものであると言うしかない。
ちなみに最後に吉田氏と煙鳥氏との間で語られる「解釈」に関してであるが、一応個人的解釈を施しておく。
2人が全く異なる風景を見た原因は、おそらく「家」に取り憑いた霊的な力によるものと判断したい。小堺がすんなりと屋内に侵入し、内部写真に什器が写らずほぼ何もない状態だった理由は、彼が“彼ら”と同じ波長を持っていたためだと推察する。要するに中に入ってきれいな写真を撮った(新興宗教の勧誘を想起すれば、何故“彼ら”が美しい部屋を見せたのかは理解に及ぶ)こと自体が、既に小堺が“彼ら”に魅入られてしまっていた。だからその後新興宗教に入信し、自らを滅ぼしてしまったのだろう。
対して、久根が玄関を見つけられずに立ち往生したこと、屋内の写真を撮ると乱雑な家具類に加えて“血飛沫”まで写ってしまったこと(これは雑誌掲載の写真が比較対象として明記されているため、異常さが明瞭に分かる)、兄貴が遠目からはっきりと人殺しの再現場面を見せられたこと、これらは小堺の事情から類推すれば容易に理由が分かる。詰まるところ2人は“彼ら”から拒絶されたのである。少なくともそういう宗教に盲目的にすがりつくような人間ではなかった、むしろそういうものに否定的な考えがはっきりしていたため威嚇されたのであろう。

その街の話
この作品はまさに吉田氏の真骨頂が遺憾なく発揮されたと言うべきである。とりとめもない怪異の数珠繋ぎの緩くてリアルなまとめ方、都市伝説を絡めた“都市怪談”の分析、徹底した取材で得た情報の巧みな取り込み(1ページを使って添付された新聞記事などは、特にリアルさという点で最大効果を上げている)。このあたりはルポルタージュ怪談のお手本と言って良いと思う。おそらくネタのインパクトも考えると、このまとめ方以外で構成してしまうと、ちょっと変わった職業のお姉さんの少しエッチで怖い怪談話に尾ヒレが付いたぐらいの印象で終わってしまっていただろう。
怪異そのものを分析していくと、おそらくウイークリーマンションの異変と“ヒトシさん”の奇談は全く違う流れから発したものであり(たまたま客から同時に出てきただけの案件との判断)、“ミイラ化したソープ嬢の飛び降り自殺体”の都市伝説も、作中にあるように、単なる思い込みで咄嗟に出た与太話の域を出ないと思う。ただ一人のソープ嬢の周辺で起こったこれらの不思議な話をふわっと包み込んで1つにまとめてしまうことによって、怪談的世界だけではなく日常の現実世界の部分にまで、何か曰くありげな闇を浮かび上がらせる。「まことしやか」という言葉がしっくりくる作品にまで高めていくところが、吉田氏の手腕の見せ所と言うべきか。

あの日 三題
この作品も、高田氏独自の世界に満ち溢れた佳作である。
「怪談とは恐怖の感情をもたらすだけの存在ではなく、人間のあらゆる感情を表出させる手段として有効である」ことを個人的に主張し続けているが、まさしくこの作品はそれの最たる実例である。これも実話怪談作品なのに敢えて怪異に主眼を置かない書きぶりに徹することが出来る作家だからこそなせる技であると考える。
過去の単著でも、どこまで感情を引っ張られるのだと思うほど心揺さぶられる作品が散見されたが、本作ではこの作品が最もエモーショナルな内容の1つになっている。しかもその文スタイルがあろう事か、ほぼ「リリック=叙情詩」と言ってもおかしくないほど、整えられた構成になっている(さすがに語数や行数を定型的にしたり、韻を踏んだりするところまではいかないが)。ただ同じ文を繰り返すことによって詩的な印象を与え、3つの怪異を有機的に結びつけている。しかもその流れは絶望から希望へと徐々に人々が進んでいく力強いメッセージが明快に表現されている。
正直、怪異としては実にありきたり。特に最初の話は大きな自然災害が起きた時の定番の怪異譚であり、おそらく別の災害の名前に変えても気が付かないだろうというぐらい、悪い意味で鉄板怪談である。最後のエピソードがやや変化球で珍しいと思うが、全体としては書籍に掲載するのを躊躇うレベルの怪異の内容である。だが、それらを創意によって、人のあるべき営みを支える強い感情を呼び起こす詩篇に仕上げてくるところに、他の怪談作家とは一線を画す非凡さを見出すのである。(少し褒めすぎ)

その他には
『机と海』(定番だ)
『ラジオVS煙鳥』(面白いネタだが、少々作り込みすぎ)
『二人の思い出』(マジで泣かせにくる)
『主人のために』(吉田氏的エモーション)
『白い服の女』(最終話、稀少なネタ)
あたりが印象に残るところである。