暗獄怪談

実話怪談本

鷲羽大介:著 竹書房怪談文庫
2022年12月7日 初版第一刷発行

全体評

鷲羽氏の初単著であるが、氏の作品はそれ以前から競作本などで目にしていた。ただ“実話怪談読み”としてはある種の違和感を覚えて読んでいたことは間違いない事実である。怪異の描写や説明に何の不足も問題もないのだが、他の怪談作家と比較すると読後の感触が妙に滑らかではない印象が確実に残る。そして、その正体が朧気ながら掴めてきたのは、何冊かの競作本を読んだ段階であった。
「怪異や体験者に対して凄くシニカルに接している」

実話怪談作家は、大概、作品のネタの提供者である「体験者」の存在によって支えられて執筆している。作家自身が[視える]人であったとしても、よほどとんでもない数の強烈な体験をしていない限り、ある程度の量産が出来ない。「体験者」と作家は切っても切れない関係であり、中には固定のネタ提供者である「体験者」を複数抱えている作家もいるほどである。そして作家は当然のことながら「体験者」の語る内容を絶対的なものとして信用するからこそ作品とするのであり、その相互信頼関係から「体験者」へのリスペクトは作品公開の絶対的な前提条件という暗黙の了解の上で作品が編まれていくのである。
ところが鷲羽氏の作品のいくつかには、そのあるべき「体験者」への絶対的信頼感を根底から疑って掛かっていると思わせる言動が作品内に明確に書かれている。怪異体験があるとのことで取材してみると、超常現象とは全く関係のない内容のガセであったり、誰かの作品の焼き直しを滔々と語るパクリであったりすることが、ある程度の確率で存在するのは事実である。しかしそれらを除外して集められ、しかも書籍に発表する怪異については、取材した作家自身も怪異であるとの確信があって出す故に、「体験者」に対する疑念は書かれないか、書かれたとしてもそれを確実に払拭して作品を締める。ところが、鷲羽氏の作品では最後の最後で「体験者」に対して(あるいは怪異にそのものに対して)非常に思わせぶりな一言が発せられるケースが多い。個人的に、どうもその最後の一言に違和感を覚えていたようである。
そのもやもやとした印象は、本作の最後にある黒木あるじ氏の解説でようやく納得がいった。
これもまた怪談界の暗黙の了解と言うべきものだが、怪談作家にまでなっている人物は当然のことながら熱心な怪異愛好家であるという絶対的な確信がある。ところが鷲羽氏はその当然の範疇から外れた人であった。むしろ強い否定的懐疑論者というスタンスが基本と推察出来る人物だった。実話怪談作家としてはまさに異質、シニカルな視線を「体験者」に注ぐのも当たり前、下手をするともっと辛辣な描き方も出来るはず、と思った。

しかしこの冷ややかで客観的な視座から書かれる怪異譚が、独特の風合いを醸し出しているのも事実であり、鷲羽大介という実話怪談作家の魅力でもある。
ストーリーの中に作者自身も登場して「体験者」の言動に対してコメントする手法は、明らかに作者の視点から体験者自身をも巻き込んだ怪異の展開が組み立てられているように見え、“あったること”を記録する形の実話怪談と比べると「体験者」の存在が大きくクローズアップされる。「体験者」の存在を出来るだけ匿名化させて怪異にのみ焦点を当てる書き方とは明らかに異なり、《怪を通して人を書く》タイプの作品に属するように感じる。だが一方で、文芸作品のように「体験者」を始めとする登場人物の心理描写や感情の揺れ動きをつぶさに書き表すことに主眼が置かれているかと言えば、そういう感じでもない。むしろ怪異に遭遇した「体験者」の言動をドラマの一場面のように切り取って、自在に読者のさまざまな思いを想起させようとする印象、ある種非常に巧みなストーリーテラーぶりなのである。言い方を変えれば、良くも悪くも平々凡々な人物が日常生活の中のハプニングに右往左往する姿を手頃な尺のストーリーにまとめ、そこに普遍的な人間の性――賢明さや愚かしさ、矜恃や狂気等々――を垣間見せる幕間劇を生み出しているように思う。しかもその目線はいわゆる“神の視座”といった上から俯瞰して人間が織りなすアヤを楽しむようなものではなく、「体験者」とほぼ同じ地平の目線、当事者でない分だけ彼らより少しばかり余裕のある目線で見た感が甚だ強く、それだけに良い意味で“人間臭い”味のある展開になっているのだと感じる。。
ただ鷲羽氏の場合、そのハプニングとなるべき出来事が全て超常現象や心霊現象というだけなのである。それ故に怪異がストーリーの軸となっているものの怪異自体を読者に提示することが目的である《純粋な怪談》と言うべき雰囲気にはならず、ストーリー上で動き回る登場人物や狂言回しの作者を通して見せる人間ドラマの方にむしろ主眼が置かれていると見るべきなのかもしれない。初めて作品に遭遇した際に、“実話怪談読み”が感じた違和感の正体は、おそらくこのあたりの実話怪談に対する意識の差異にあるのだと思う。そして読みこなれているうちに、個人的には、かの短編小説の名手であるサキを彷彿とさせる深い苦さを感じる味わいが大いに含まれているという思いに至っている。

さらに実話怪談としての肝である怪異についてであるが、鷲羽氏の許に自ずと集まってくるという様々な妖しい出来事は、小粒ながらあまり類を見ないタイプのものが多く、決して月並みでつまらないレベルではない。怪異の内容が一筋縄ではない、怪談ジャンキーを唸らせるような訳の分からなさであるからこそ、作者によって描かれた実話怪談としては特異なスタイルである人間ドラマの中でも怪異が妖しく蠢くことが出来るのである。そしてシニカルな視線ではあるが、決して頑なに怪異を否定しないスタンスは、正統派ではないかもしれないが正調の怪談であると疑念を差し挟むことなく言えるだろう。

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