「弔」怖い話

令和時代

加藤一:著 竹書房書房怪談文庫
2022年6月6日 初版第一刷発行

最終エピソードに向けて、最初から意図的に繋いでいく構成は相変わらず巧い。個人的には「神様が絡む」系列の怪異が身近にあったのですんなりと受け入れるが、構えて読んでしまう人も結構いるかなという印象。でも“宗教”とか“スピリチュアル”とは全く異なる次元であり、たまたま2人の体験者――坂口さんと筑紫さんの能力の源泉がそのような稀な存在に由来しているという部分だけが、普通の怪異体験談とは異なるだけである。

「神様と縁付く」レベルになると、とにかくさまざまな怪異に対してその神様なる存在が常に絡んできたり、空間的にも時間的にも途方もなく話が広がる傾向がある。やはりそういう点で最終エピソードは大変な情報量の多さがあった。
さらに「神様と縁付いた」人の話は一般的な怪談と何が違うのかを改めて考えてみたが、最終的には《縁付いた個人を消すことが出来ない》故の特異性という結論に落ち着いた。詰まるところ「誰にでも起こりうる」怪談話ではなく、良くも悪くも縁付いた個人がストーリーのメインにいてこそ成立する、単に《視える人の話》だけとも違って一般化が不可能、その個人と縁付いた神様まで引っ張り出して初めて怪異譚となるし、そこから延々と話が拡張するから止まらない。とにかく“あったること”だけでは話が終わらないのである。
しかも神様の存在は本人の中で閉じてしまっているから、怪異の現象は客観化出来ても、それと密接に関わりを持つ、原因たる存在を客観的に示すエビデンスに事欠くわけである。ある意味《内なる経験と信仰》を読み手が信じていくしかなく、これが一般的な怪談話よりもハードルが高い理由になっている。

おそらくであるが、この作品のメインとなる最終エピソードに対する違和感を消すため、それまでの39編が用いられているように推察する。坂口さんと筑紫さんの特殊な体験であったり、その他霊的な存在を身近に感じさせるような怪異であったり、超越的な存在にまつわる話を散りばめていくことによって、最終の途方もない怪異譚(ある意味“霊験”と断じて差し支えない内容)を作者が提示しようとしたと考えるのが妥当ではないだろうか。

最後に余談を。
最終話の途中で登場する「京都の龍神様」の初代祭主は、40年以上前に昼間の某ワイドショーで心霊写真鑑定をしておられた方。ただし鑑定がぶっ飛びすぎて冗談にしか聞こえなかった。いきなり「これは遙か彼方宇宙から来たひょっとこの霊です」とか言われても、さすがにオカルト少年もついていけなかった……。「神様の世界」とは斯様なものなのである。