実話怪談と伝承怪談 4

怪談論

前回までの展開
「実話怪談」とは《あり得べからざることが起こる話》であり《実際に体験した人が存在する話》の両方の条件を満たした話である。
そして、“体験者の存在”が「実話怪談」を実話たらしめる要件であると同時に「伝承怪談」との境界を定める要件でもあるとし、「実話怪談」における“体験者”とは、《事実》としての“怪異の第一遭遇者”であるだけではなく、読者(疑似体験者)との《関係性》としての【当事者感覚】を体現する存在であると考えるに至った。
その上で、【当事者感覚】の遠近によって「実話」として成立する例として、「都市伝説」との【当事者感覚】の相違を提示した。要するに「実話怪談」と「都市伝説」の概念を隔てるものの本質は、“体験者”の空間的距離の差にあるとする考えである。

「伝承怪談」の【当事者感覚】

もう一度「伝承怪談」の定義を確認すると、それは“民話や伝説などの昔話の中にある怖い話”ということになる。この古い時代の怖い話における“体験者”に対する距離感については、前回取り上げた『耳嚢』の具体的な例の中で言及した通り、相当な距離感がある、即ち【当事者感覚】が非常に薄いと言わなければならない。
では「都市伝説」が【当事者感覚】を限りなく近づけることで「実話怪談」となり得る可能性を持つように、「伝承怪談」も【当事者感覚】を近づけることは出来るのだろうか

「都市伝説」における距離感の本質は「空間的広がり」によって生じた。要するに“体験者”が“友だちの友だち”という現在別の場にいる人物である関係の希薄さに起因するものであった。
しかし「伝承怪談」における距離感の本質は空間ではなく、“昔の話”という「時間的隔たり」に他ならない

空間は“私”のいる場所から連続的に広がっており、そして空間それ自体において制約されることなく、その無限の広がりを自由に移動することが出来る。人間にとって空間内にあることは自由であり、それ故そこに存在する他者との位置関係に関しても自由、つまりその距離感は自由であり、【当事者感覚】も容易に近接させる可能性を確実に持っているのである。
しかし時間は空間とは異なり、“私”のいる場所から連続的に広がってはいるものの、そこには人間が乗り越えることができない制約がある。時間は過去に遡及することが出来ないものであり、ただ未来に向かって一方的に流れるものである。つまり人間にとって、時間は無限に広がっていようとも自由に行き来することが出来ないのである。

ここにおいて「伝承怪談」は「実話怪談」となり得るかという問いに対する答えがある。
「伝承怪談」が“昔”という遠い過去の内容を扱うものである限り、「実話怪談」になり得るものではない。その【当事者感覚】を近づける手段を持ち得ないのである

「実話怪談」における【当事者感覚】の時間的領域

「伝承怪談」が【当事者感覚】の点において「実話怪談」とはなり得ない、つまり時間という制約、“昔の話”である理由から「実話怪談」としての要件を大きく欠くものであることが提示された。
しかしながら、この“昔”という過去の時間帯は一体どこで区分されているのだろうか

“昔”という言葉の対義語である“今”という言葉は、“私”の存在なくしては定義出来ない“私”を基準として“今”は存在する。そして“私”自身と繋がり持つ存在も“今”の範囲に入るだろう。例えば“私”の過去の記憶は“私”が存在する限りにおいて“私”の一部であり、厳密な過去の時間に属する出来事であっても記憶として“今”に属することが可能である。それ故に“現在”という言葉の概念よりも、“今”はその概念の領域を広げている。言い換えれば、“今”は厳密な意味での“過去”も一部含んでいると言える。

“今”という概念は、上にあげたように“私”の過去の経験が含まれるその中には“私”個人が直接体験した内容は勿論、“私”が間接的に体験した内容、言い換えれば他者から聞き及んだ内容も、それを見聞したという経験として含まれることは明白である。
ただしここで留意しなければならないのは、空間的な【当事者感覚】の内容である。
他人から聞き及んだ内容であっても、その全てを“私”が過去に体験した内容とすることは“空間的な条件”によって認めることは不可能となる。例えば書籍から普通に得た情報は真の意味で体験とは言えない。これと同じく、当事者である“体験者”から直接的にその過去の記憶を聞き及ぶ経験でなければ、これを“私”における“今”と結びつける経験とは言えないだろう。“怪異の第一遭遇者”たる“体験者”との間に複数の話の介在者が存在することは【当事者感覚】を大きく損ない、「実話怪談」としての信憑性を手放すことになる。つまり「都市伝説」における“友だちの友だち”と同じ、“体験者”が明確でない単なる伝聞状態に陥ってしまう。

註:上記の直接的な聞き及びを除いて“私”自身以外の体験を「実話怪談」としてを成立させることが出来るのは、怪談作家(表現者)としての執筆(表現)の場合に限られるだろう。ただしそこには“体験者”からの取材を通してその怪異が「あったること」であると担保する責を負うことの出来るという、非常に厳しい条件がつけられることになる。

では“私”が直接聞き及ぶことの出来る時間的範囲とはどこまでなのだろうか。おそらく“私”自身が直接他者から話を聞ける体験としては、やはり幼児期以降となるだろう。そうなればおそらく“私”にとって祖父母の世代あたり、言い換えれば“私”よりも約60年前後過去から存在する人間の記憶は、それが直接“私”が聞き及ぶことによって《“私”の記憶=“今”の話》となり得ると考えてよい。
その“私”が直接聞き及ぶことによって“今”となり得た話の範囲の中には、当然のことながら、“私”に語って聞かせた“私”(祖父母)の記憶も含まれる。つまり“今”ここに存在する“私”から見れば、高祖父母に当たる世代の人の時代まで、条件次第では遡及することが可能であると言える。そしてこの“私”から遡及される5世代の人間が連綿と生きている時代を“今”と定義しても良いかと思う。それは個人差もあるが、おおよそ平均的に現在の“私”から150年程度までの過去を許容範囲とする年月とみなすことが出来るだろう。

以上のように、“今”は一定の時間の幅を持ち、時間の経過と共にゆっくりと動いていく。それ故、世代が大きく異なれば、それぞれが指す“今”は大きく変わる
例えば、戦後の昭和生まれの世代の人間であれば、“今”として認知出来る一番古い時期は、おそらく[幕末~明治維新]の頃になるだろう。しかし21世紀に生まれた世代の人間あれば、明治時代を“今”に含めることはかなり困難になるだろう。こうやって“今”は動いていくことになる。
このゆっくりと動いていく“今”によって、古い時代の怪異の話は、“体験者”が【当事者感覚】から遠くなるために、少しずつ「実話怪談」の範囲から外れていくことになる。そして、それらが言うまでもなく「伝承怪談」の一部なのである。言うならば「伝承怪談」は、年月の経過によって【当事者感覚】から大きく外れてしまい、生きている人間の証言としてのリアル感を失い、記録としてのみ遺された「実話怪談」とみなして良い。

そしてこのことから「実話怪談」に関しても、新たに重要な性質を付与する必要がある。
「実話怪談」とは、“今”という時間概念を共有することで成立する、怪異の物語である。
それは、実在する“体験者”の存在を明確に提示することで得られる、「実話怪談」という名のリアルを疑似体験者が享受することを意味すると言ってもよい。あるいは、時代特有の文化や風俗、風潮に彩られた時代背景などに影響を受けつつ、「実話怪談」がその一つの表象として展開されることを意味すると言ってもよい。加えて、あるいは霊・魂・神といった普遍的存在を扱いつつ、「実話怪談」がただひたすら「あったること」として書き留められることを意味すると言ってもよい。とにかく「実話怪談」は【当事者感覚】に重きを置き、常に“今”と密接に関連付けられることが要求される。「実話怪談」は実にコンテンポラリーな存在として認知すべきである。

「実話怪談」と「伝承怪談」の融合

昔話などに登場する怖い話である「伝承怪談」を「実話怪談」とみなして良いのかという問い掛けから始まった論考であるが、最終的に「伝承怪談」は決して「実話怪談」になり得ない、むしろ「伝承怪談」は体験した時間の経過によって「実話怪談」の領域から外れた話であるという位置付けを提示するに至った。
では、この論考のきっかけとなった《「実話怪談本」の中に怖い民話や伝説(「伝承怪談」)を採話する》ことは結局良いのか悪いのか。この是非について最後にまとめてみたいと思う。

「実話怪談」と「伝承怪談」との差は、まさしく時間的な距離感の相違である。「実話怪談」の“体験者”は擬似的体験者(読者)との距離が近く、「伝承怪談」の場合は身近にあるとは言えない距離関係にあった。逆に言えば、この《距離感の相違》以外に差がないわけである(実際「伝承怪談」の話は元を質せばある時代においては「実話怪談」として流布していたと考えられる)。それ故“今”という【当事者感覚】の距離にまで『伝承怪談』の話を接近させる工夫を施すことが出来れば、「実話怪談」の範疇に戻ることはなくとも、少なくとも融和するはずである。
これを実現可能な創意として、いくつか列挙しておく。

資料選定の観点から

「伝承怪談」を収集する場合、当然のことながら、直接取材ではなく文献資料から拾い集めるという作業となる。この資料を比較的新しい時代のものから選りすぐっていくことで、“今”に繋げていくことは可能である。
例えば、代表的な資料としては、明治以降の新聞掲載記事、あるいは地方自治体や学術研究機関から発刊された民俗や歴史関連の刊行物が挙げられる。要するに“怪談本”というコンセプト以外で上梓された発行物から明治・大正・昭和時代の出来事や証言を拾い上げてまとめ、「実話怪談」本として再編することは有効であり、且つ有益な取り組みであると考える。

註:「実話怪談」の作品において時折問題となるのは《著作権》の所在、即ちこの作品の権利者は果たして“体験者(提供者含む)”なのか“作家”なのかということ、である。現在のところは暗黙の了解として、「ある作家の怪談本内で公開された体験に関しては、他の作家は許可なく再度採話しない」ことになっていると聞く。上記の新聞記事や公的刊行本についてはあくまで“資料”という扱いで、“参考文献”という形で明記することで掲載可能という形で、現段階では落ち着いている(「実話怪談」本の場合、これらの話は“資料”ではあるが、決して完全な引用やそのままのコピーではなく、作家本人がきっちりとリライトする形で公開するのもお約束である)。

作品構成の観点から

江戸時代以前の古い「伝承怪談」の場合、時間という遡及不可能な条件が横たわっているため、かなり強引な手法で融和を試みる必要がある。その中で最も手軽で興味深い内容に仕上げることが出来ると思うのは《ルポルタージュ》の手法である。

註:強引な手法の中でも最も悪手であると考えるのは、「現代風にシチュエーションを置き換えてリライト」であろう。このリライトをおこなう場合、怪異そのものの内容が改造される危険性よりも、時代の背景や風俗といったディテールがことごとく塗り潰されていき、結局創作と変わらないものに堕する問題がある。

「伝承怪談」として紹介をしつつ、その現場へ作家本人が足を運び、その風情を併せて紹介する。そこでまた不可思議なことが発生すれば、まさに言うことなしである。また何もなければ何もなかったで、恐怖一辺倒のガチ怪談へ昇華させることは叶わないものの、味わい深いものになるだろう。全編をこのパターンでやれば、怪談系ではなく歴史伝承系からのアプローチにしか見えなくなるが(ただこれは歴史伝承系の王道の一つでもあるが)、巧みに挿入することで手触りの違う「実話怪談」本が出来るかと思う。

地霊的解釈の観点から

最も理想的な形で「伝承怪談」を「実話怪談」内に取り込み、そして発展的に融合させることになる。ただしあまりにもレアなものであり、なかなか掘り当てられるものではない。
簡単に言ってしまえば「昔何らかの怪異が生じたと伝えられる場所で、現在怪異が発生した」という、土地そのものの繋がりで「伝承怪談」をある意味蘇らせる手法である。
最も有名な例が《おせんころがし》である。断崖から人を落として殺したという伝承が残る土地で、後年同じような手口で殺人事件が起こった。伝承だけ、あるいは事件だけが発生した場所であれば、おそらくここまでの知名度はなかったはずである。両者の間に何か因縁めいたものを感じ取ることが出来る故、強いインパクトを残す結果となっている。
このような曰く因縁の土地を一冊の「実話怪談」本で複数紹介することが出来れば、間違いなく上質の部類に入ることだろう。

昨今、毎月のような大量の「実話怪談」本が発刊され、また各地で怪談イベントが催されるようになっている。当然、それに併せて怪異体験者の絶対数が増えるということはなく、いずれはどこかで質的・量的に状況が逼迫するのではないかと危惧するところがある(特に質的枯渇は個人的に最も危険視している)。これを解消する意味では、「伝承怪談」は有効な代替手段であると思っている。配合を間違わなければよく融合するだろうし、相乗効果を生み出すことも十分可能であると予測している。まだ画期的なコンセプトの創出にまでは至らないが、面白い化学反応を期待をしている分野である。
(了)