実話怪談と伝承怪談 1

怪談論

最近、実話怪談本の中に怖い話の「民話」が加えられるケースをいくつか見た。これを見た瞬間、「これはどうなんだ?」という率直な疑問が生じた。要するに、怖い昔話を【実話怪談】として認めて良いのだろうかという迷いが一瞬で湧き上がってきたのである。
ところがよく考えると、実話怪談と怖い昔話を明らかに分別しているはずなのだが、どこで一線を画しているのかが自分でもはっきりしない。というか、そんなこと一度も真剣に考えたことがないし、そもそも実話怪談と怖い昔話が同じベクトルを持っているとして、本当に両者が地続きに存在するものなのかすら分からない。
ということで、こういう時は「吟味し、批判する」のが哲学の徒の仕事である。
実話怪談とは何か、怖い昔話(一応“伝承怪談”という名称を付ける)とはどう違うのか、違うとなればどこかでその境界は存在するのか、などを自分で考究するしかない。

実話怪談の定義

巷で“実話怪談”と言われているのは、次のような内容を持った話である。

  • あり得べからざる出来事が起こる話である → 怪談
  • 実際に体験した人物が存在する(存在した) → 実話

他にも様々な定義付けがなされているが、この2つをはずしては成り立たないことは間違いないし、語義的にも正しい内容であると考えてよい。この2つの内容を実話怪談の定義としてもう少しその内容を掘り下げてみる。

註:「実話怪談」という言葉に対して「怪談実話」という言葉も存在する。単純に言葉を入れ替えただけというわけではなく、「実話怪談=実際にあった怪談」と「怪談実話=怪異について書かれた実話」という微妙な差違があり、昭和時代の子ども向け怪談の反動から入った者と、文芸的な怪談をを愛好する方向から入った者と、人によってはかなりこだわりを持って使っている(ぶっちゃけで言うと、今は出版社によって使い分けられている面が強い)。
ただ今回は、この違いに関して不問ということで話を進める。ちなみに私は、怪異現象の真贋を最も重視する立場の人間なので、「創作怪談」に対する「実話怪談」派というスタンスである。

あり得べからざる出来事が起こる話

怪談とは「あり得べからざる出来事が起こる話」である。これには2つの種類があると考える。
まず「あり得べからざる」の反対語となるのが「あり得る」という言葉であり、言い換えれば、我々人間が考えることが可能な範囲での出来事を指す。つまり「あり得る」出来事とは

  • 自然界における、自然科学の法則に則った現象
  • 人間界における、道徳・規範・常識に則った行為

とみなして良いだろう。そうなれば「あり得べからざる」出来事は、その対極にあたるもの即ち

  • 自然科学の法則に全く反する現象=超常現象
  • 道徳・規範・常識に極端に反する行為=人怖

という分類が可能であろう。実際のところ、いわゆる超常現象と呼ばれる内容(心霊現象などを始めとする話)以外にも、普通の感覚では行うことはあり得ない行動を取る人間に対する恐怖を明らかにする話も一部怪談として認められる。
よって上に挙げたような内容を持つ話を「怪談」と認め、実話怪談の主要な成立条件とみなすことが出来る。

註:いわゆる“人怖系”の話が怪談として成立するのは、その行動の表象ではなく、むしろその行動の背後にあるはずの原因・理由が闇深さゆえに理解できないことへの恐怖である。つまり“同じ人間とは思えない”所業のバックグラウンドが見えないがゆえの恐怖感が主となっていると言える。その点で言えば、“人怖系”の本質は、超常現象における未知なる存在への畏れと同質であり、我々の身近に落とし穴のように異質の存在が何食わぬ顔で存在する状態を知ることと限りなく等しい。
ただし超常現象は現在の人類の叡智では決して理解することが出来ないものが対象であるのに対して、人怖系は何らかの糸口からその闇の部分が明かされる可能性を持っており、実際行為者の心理に焦点を当てることによって同じ事象を怪談以外のジャンルの話(クライムストーリーなど)に仕立てることも出来る。

実際に体験した人が存在する話

“実話怪談”という言葉の根幹部分にあたる内容であり、これなくして“実話怪談”は成立し得ない。例えばいかに優れた怪談でも、それが作家の創作であれば、“実話怪談”を名乗ることは出来ない。当然といえば当然のことであるが、ところが単純そうに見えて事情は複雑である。その大きな問題は

  • 体験者の存在証明の問題
  • 怪奇現象の再現性の問題

に絞られるだろう。言うならば「そのエピソードを体験した人物は果たして実在するのか」という問題と「そのエピソードで起こったとされる現象は本当にあったことなのか」という問題である。

註:後者の再現性の問題については、今回の吟味とは直接関係ないため、考察は割愛する。ただしこれはこれで“実話怪談”の世界では非常に重くて重大な問題、即ち怪異の真贋の問題、作家の存在意義(文芸論)の問題を孕んでいることは指摘しておきたい。いずれこの問題は取り上げることになる。

“実話怪談”は、体験者(=話者=提供者)が存在することが前提として成立している。これが体験者=作家という構図であれば、それほど問題は起こらない。作家自身が体験者であると名乗り出ているわけで、万が一作家が虚偽の申告をして怪談を創作していることが発覚すれば、その全責任を作家が間違いなく負うことになるからである。

一方で体験者≠作家の場合、どのようにして体験者の存在を証明しているのか。
詰まるところ、版元なり読者なりは性善説に基づいて、怪談の公開責任者である作家の申告を担保として体験者の存在を認めている。簡単に言えば「体験者がいると作家が言っているからそれを信用する」ということになり、それは即ち“実話”であることの証明を作家が全責任を持って負うことと等しい。

昨今“実話系怪談”と銘打った作品が刊行されることがある。言うまでもなく、これは創作の怪談であり、「体験者がストーリーを物語る」という構造で作られている。つまり体験者なる人物が物語るフォーマットで書けば、いくらでも“実話”と見紛う作品は出来るのである。
では、何をもって作家は体験者の存在を証明するための担保を読者や版元に提示するのか。

これもまた結論となるが、最終的に作家が「これは本当にあった話である」「体験者の存在する実話である」と宣告する以外には担保はないようである。
それゆえに、作家本人が実話であることを宣告していない作品は、たとえ体験者が存在しようが、“実話怪談”と認めることはしない
逆に、明らかに作家の手が相当に加えられていると感じようとも、作家自身が「実話である」旨を宣告していれば、読者は“実話怪談”と一旦は認めなければならない

註:「実話怪談の真贋を見極める」作業とは、この後者のような“自称・実話怪談”を洗い出すことが主目的である。経験知を駆使しながら怪異のパターンを発見し、それに該当しないあるいは逸脱した内容を持つ事例をあぶり出し、そのような作品を隔離する作業である(完全に嘘=創作であると否定できる作品はごく僅かであり、実際には内容の誇張や改変がほとんどであるので、除外というより隔離というニュアンスが適切である)。

“実話怪談”は「あり得べからざる事実を書く」という、にわかに信じることが出来ないような出来事を題材とする文学である。そして皮肉なことに、その信じがたい話を成立させるのが、性善説的に他者への信用であるという事実である。成立の前提からこのような矛盾を孕むからこそ、“実話怪談”は虚実皮膜の間を漂うことが可能なのかもしれないとも思うところである。

以上で“実話怪談”の定義とその周辺の事柄についての説明を終了する。
この定義に従って、具体的な作品が“実話怪談”として成立しているかどうかの検証をおこなっていく。
(続く)