実話怪談 二つの進化形態

怪談論

「実話怪談」と呼ばれる作品は、当然のことながら、作品に責を負う書き手(作者)が存在する。それは他の文学と同じであり、絶対的に外すことが出来ない要素である。しかしながら、「実話怪談」は一方で匿名の体験談を集めた延長線に位置する存在であり、他の文学作品とは違った扱いを受ける。
“文学”という作品と作者との不可分が前提の存在であると同時に、“噂話”という作者がオリジナルの表現者とは限らないことが前提の存在でもある「実話怪談」は、その発表後の時間の経過と共に、普通の文学作品とは異なる2つの形態に進化していく。

特殊への道 普遍への道

普通、文学作品は時間の経過と共に、次の2つの道を歩む。即ち「読み継がれていく」ものと「埋もれ消えていく」ものの2つの道である。書籍・印刷物として刊行されれば間違いなく記録には残るが、文学作品として後世に読み継がれていく、少なくともその存在が口の端に上ることがなければ、それはなきに等しい存在と言える。
「実話怪談」も同じく、後世に語り継がれてゆく作品と、刊行されて以降は消費されて終わってしまう作品もある。要するに“記憶に残る話”とそうでない話に分けられる。しかし「実話怪談」の場合、その語り継がれる様式が2つに分けられるのである。それが《特殊》への道《普遍》への道である。

《特殊》への進化

「実話怪談」のジャンルでもいわゆる“傑作”と呼ばれるものがある。あまりにも有名な事件・事故にまつわるとんでもない怪異であったり、その原因が因業深くて人知では対処しきれないほどの内容であったり、作品そのもののインパクトが強烈すぎて記憶に残るものであったり、ある人気作家の名を知らしめたエポックな作品であったり、理由は様々ではあるが、作家や作品名を聞いただけで概要を思い出すことが可能な作品がある。
これらの作品は、時間の経過とはあまり関係なく、「あの話は凄かった」という評価を受けながら残されていく。その残されていく過程において、これらの作品はより一層個別的に名を冠されるのである。例えば、作家名が作品の頭に付く、あるいは作品名が固有名詞化される、あるいは突出したキーワードだけで多くの人が作品を想起するといったことが当然のように生じてくる。これが《特殊》への進化の道と言えるケースである。

文学作品の傑作が、当然のように作家名と作品名を紐付けられ、誤りのないあらすじで語られ後世へ紹介され引き継がれるのと同じ流れである。「実話怪談」で言えば、人名やその肩書き、発生した場所など具体的な固有名詞が残され、体験者やその周辺のディテールが非常に細かな部分までちゃんと保存されたあらすじが常時提示される。そしてその細部の緻密な表記が、後世にまで残る傑作として怪異の信憑性を崩さないよう維持していく裏打ちともなっていく。
怪異の特殊性が際立っているから傑作となるのか、傑作であるからその特殊性が残されていくのか、その点は微妙ではあるが、長きにわたって「傑作」と呼ばれる実話怪談の作品は、間違いなく《特殊》であること、即ち個性的で具体的なワードを際立たせその作品自体の価値を高く維持することで、後世まで名を残していくことになる。

《普遍》への進化

一方で「実話怪談」は作家自身の創作ではなく、体験者(本人を含む)を介しての「あったること」を元に書き綴られる作品であり、明確な体験者の有無という条件をなくせば巷に溢れる“噂話”と大きく変わらない内容であると言ってもあながち間違いではない。むしろ巷に流れ出る怪異の“噂話”の雛形の一部は間違いなく「実話怪談」が担っていると言うべきかもしれない。

この「実話怪談」が体験者の「あったること」を踏み外すことなく怪異を抽出して再現する作品であるが故に、普通の文学作品とは異なる進化の形態を見せることになる。それが《普遍》への進化の道というケースである。
具体的に言えば、《特殊》への進化が固有名詞やディテールを失わずにむしろそれらが強調されるように怪談が継承されていくことであるのに対して、《普遍》への進化はそのような固有名詞やディテールが時間経過と共に削ぎ落とされた形で成立していく怪談である。特定の誰かが体験した、特定の場所で発生したという情報がいつの間にか失われ、最終的には「あったること」の怪異だけが伝えられていく。それは物語の単純化・一般化であり、同時に“いつ誰が体験したか分からない”=“いつでもどこでも誰でもが体験するかもしれない”というコンセプトにすり替えられて、生き延びていく。まさしく“個別”の概念を失ったが故に、新たな“万人に対する不安感”という概念を獲得した怪談となる。

さらにこうやって単純化・一般化を経て生まれた怪談は、怪談の雛形として新しい固有名詞やディテールと意識的にあるいは無意識的に融合させられることによって新たな怪談を生み出し増殖する。それは《特殊》な進化を経た怪談が不朽の名作として確乎たる地位を得るのとは違う形で、しかもある意味最も凶悪な姿に常に変化しながら生き続ける存在である。

それぞれの進化をたどる怪談の行方

時間という厳しい錬磨に耐えて残る「実話怪談」は《特殊》と《普遍》の全く異なる道のいずれかをたどっていく。前者は後世に残すために堅牢な標本箱に収められた稀少な怪談として、そして後者は常に手垢にまみれた変化を受け入れながら人口に膾炙する旬の怪談として
このそれぞれの進化は、一旦《特殊》と《普遍》の道に分かれるとそれきりになるというわけはない。むしろこの両者が再び絡み合うことで、さらに新しい「実話怪談」は生まれ、そして発展的展開を見せるのである。

例えば【伝承怪談】。
各地方に口碑として残る、怖い昔話のほとんどは、おそらく《普遍》への進化を遂げた話が、再度《特殊》への進化を経て完成したものではないかと推測する。実際の体験者が遭遇した具体的な怪異が語り継がれることによって単純化・一般化されていき(怪異の類話による合理化が進められたと推察)、1つの口碑のパターンが出来た中で、今度はそのエリアに存在する事物や体験者を成形された話の中に落とし込むことで【伝承怪談】は発生してきたのではないだろうか。
そして言うまでもなく、最初に《普遍》への進化を遂げた話がなぜその道をたどれるかを考慮すれば、その前段階に存在するのが「ただの体験談が《特殊》への道をたどった」からに他ならない。類話が多い怪談話こそ、元来《特殊》な存在として受け入れられた経緯があり、それが伝播することで《普遍》の道を歩むことになったと考えるのが妥当であろう。

怪談が個人の体験談から始まったであろうと考えられる以上、原形は常に《特殊》であり、そこに様々な類似の体験が集められることで、あるいは人口に膾炙されるうちに研磨されていくことで、原形は新しいものを作るための雛形として《普遍》となっていくのである。
「実話怪談」は実際の体験者がある話でありながら、《特殊》と《普遍》の入れ替わりを繰り返して、より高くより深く発展してきたと考えるのが妥当である。「ただの金縛りの話じゃ怖くないよ」とうそぶく背景には何百も語られてきた金縛りの話があり、その積み重ねの中から得た知見だけで物を言っているだけと理解すべきだろう。もしかすると次の世代で今までの金縛りの話を凌駕するとんでもない体験が発生し、怪談として語られる日があるかもしれない。

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