厭系怪談 三景

怪談論

「嫌」ではなく「厭」。
この漢字を使ったことから1つのジャンルとして認知された感がある《厭系怪談》である。
その系譜は、2012年に出されたつくね乱蔵氏の『厭怪』から始まっていると言えるが、現在の《厭系怪談》は3つの系統に分かれているように思う。これらを提示することで、《厭系怪談》とは何かを考えてみる。

恐怖箱 厭怪 (恐怖文庫)
恐怖箱 厭怪 (恐怖文庫)

【感情破壊】型

ごく普通に幸せな生活を送っていた者が突然の怪異によってそれらを失って不幸のどん底に落とされる。本来温かな幸せに包まれるべき存在が惨い仕打ちの果てに怪異の渦の中でもがき苦しむ。
――このようにどうしようもない不幸をこれでもかと書き記し、読者の感情を潰しにかかる怪談。おそらくこれが《厭系怪談》の最もコアの部分、要するにつくね乱蔵氏が年月を掛けて形成した《厭系怪談》の原点となる怪談のパターンと考える。

この系統の《厭系怪談》は、とにかく感情移入すればするほどその絶望が増幅し、その絶望感によって心胆寒からしめる内容になっている。怪異に遭遇する者が幸せであればあるほど(しかもそれが一般庶民が手に届くぐらいのレベルの幸福)、怪異の結末によって奪われてしまうものは大きくなる。それは大切な家族や仲間であったり、将来の夢や希望であったり、間違いなく今の自分自身が享受しているものと何ら変わりないものばかりである。あるいは怪異の原因に虐げられた弱者の存在が浮かび上がれば浮かび上がるほど、そのような怪異に至った境遇に感情を奪われてしまう。それは自分の周囲にいる者、そして自分自身の今までの境遇と照らし合わせ、同情の念を抱いてしまうものばかりである。

感情破壊型の《厭系怪談》は、それが怪異の遭遇者であれ、怪異の実体であれ、幸せを奪われた“被害者”の側に立った視点へと読者を導いていく。そしてその不幸へのプロセスを自身の体験と照合することによって得られる絶望的な喪失感を擬似的に体験することで《厭系怪談》として成立していく考えるべきであろう。

【無慈悲】型

同じ《厭系怪談》でも、およそ登場人物のプロフィールには触れずに、ひたすら怪異そのものだけに焦点を当てて、その怪異の圧倒的な力を見せつけることで読者に人間の力ではどうしようもない絶望的諦念を与えるパターンも存在する。
具体的に言えば、体験者がどうにも逃れることが出来ない状況で想定通りの結末を迎える。あるいは何の落ち度もない人物がふとしたことで唐突に悲劇的な結末を迎える結果に転がり落ちてしまう。全く情け容赦なく降りかかる災厄のような怪談である。

その悲劇的な結末が死・失踪・再起不能といった致命的な内容であること、そして当事者の感情抜きにしてもその致命的事態に至るまでの過程が真綿で締めるようにじわじわと書き連ねられ、読者を逃れることの出来ない恐怖に陥れる展開となっている。最早誰にも止めることの出来ないカタストロフィへの一本道であり、その人智を軽々と超える怪異の前には何人たりとも無力に等しいと思わせてしまうだけの凶悪さを持つ。

この系統の《厭系怪談》は、登場人物への感情移入のような間接的方法ではなく、むしろ体験者の個性を出来るだけ薄めて“誰にでも無差別に起こりうる怪異”として読者の前に提示する手法が多く採用される。「知ってしまった以上、逃れる術はない」と言わんばかりの展開を見せることで、単純に「怖かった」と他人事のような感想だけでは終わらせない、恐怖へのアプローチを伴う。あたかも読者が次の悲惨な体験者となるかのような巻き込みによって《厭系怪談》となり得るのである。

【胸糞】型

読者を不愉快の気分にさせる存在が怪異を起こして引っ掻き回すだけ引っ掻き回すという展開を見せる《厭系怪談》である。いわゆる“胸糞悪い”と評される作品には2つのパターンがあり、一つはそういう罰当たりな者が怪異によって罰を受ける勧善懲悪を遂行するための方便となる形、もう一つは正真正銘怪異そのものの根底に胸糞悪い要素がたっぷりと塗り込められている形である。勿論《厭系怪談》としては後者のみが取り上げられる。

例えば、己の叶わぬ願望を死んで霊体になることで叶えようとする、欲望の権化のような存在が怪異を引き起こしている場合。あるいはこちらも願望を達成させるために霊的な存在を利用するだけ利用する場合。ただこれだけでは、“邪悪”や“外道”と呼ばれるレベルで終わってしまうだろう。「胸糞」と罵詈雑言を浴びるためには、さらにそのような邪悪の塊が因果応報の網を潜り抜けてのうのうと同じ世界にのさばっている、即ち少なくとも彼らは物語の中では勝者の立場でなければならない。そこに読者が気分を害するほどの怒りを覚えることでようやく《厭系怪談》となるとみなすべきである。

この系統の《厭系怪談》は、感情移入の一種ではあるが、そこから突き抜けて読者の倫理観や正義感といった部分を刺激し、さらにそれらが「やった者勝ち」の状態で一旦ストーリーを終えるように仕向けることで成立する。徐々に怪異の真相に近づくにつれて露わになる“加害者”の存在に全てが持っていかれてこそ初めてこの種の《厭系怪談》はどす黒い輝きを見せると言えるだろう。

さいごに

この3つの系統の《厭系怪談》であるが、それぞれ独自の領域を持つ怪異のケースもあるが、それよりも実はお互いの要素がほどよく絡み合って出来ているケースの方が多いと言える。同じ怪異を作家がどの視点で見るかによって異なった《厭系怪談》が生まれることが往々にしてある。欲望のために幸せな生活を営む者の人生を狂わせる側から書くか、あるいは理不尽な出来事の果てに築き上げた幸せを奪われた側から書くか、それとも体験者の感情を抜きにただひたすら惨たらしい結末へと粛々と筆を進ませるか。もっと言えば、感情を損ねる全ての要素を取り払ってライトな物語とすることも可能なのである(さすがにこれを選択する作家は稀有であるが、あくまで可能性として)。

しかしながら《厭系怪談》そのものがどちらかと言えば強烈なネタの部類に入るものなので、それを引き当てる強さが作家にないといけないことは明白である。そして何よりこの誰も得をしない絶望の世界を書く“覚悟”が必要である。決して軽々しく取り組める相手ではない。それ故、そういう種の怪異を紡ぎ出す怪談作家達に敬意を表し、読者も心構えて読むべきと思う次第である。勿論、それは読者が吹き荒れる怪異の猛威に対して正気を保つため必要なことでもあるが……

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