「投げっぱなし」怪談について

怪談論

「投げっぱなし」怪談とは、少なくとも2006年におこなわれた【超-1】コンテストの講評が展開された時期に、ある一定の定義が施された《怪談スタイル》として認識されていた語である。
このスタイルについての定義付けのまとめと、実践的なスタイル論についていくつか思うところを書いてみた。

「投げっぱなし」怪談の定義

この言葉で括られる怪談作品に共通するのは、とにかく話が短いということである。
文庫本で言えば1ページ未満は絶対条件。場合によってはさらに短く、一桁行数が当たり前という感じであったと思う。中には本当に1行ぽっきりで終わる作品も出てきたわけである。
そしてもう一つの定義となるのが、余計な解釈や蘊蓄を一切合切取り除いた写実一辺倒の内容である。
数行程度の長さで完結させるのだから、当然といえば当然であるが、とにかくシチュエーションは極限まで省いて最小限度のみ、体験者のプロフィールもなければ、下手をすると文章中に体験者たる主語すらない。また体験者や作者の解釈めいた言葉も皆無に近く、余韻を残すような情緒的な言葉もない。
はっきり言えば、ただ「あったること」だけがゴロンと置かれただけの作品なのである。これが「投げっぱなし」怪談と言われる所以である。

それ故に、作品が恐ろしく短ければ、それで「投げっぱなし」怪談となるのかと言われると、やはり趣が違うと言わざるを得ない。
例えばTwitterで展開される「140文字の掌編」であるが、あれらを読んでいても「投げっぱなし」だなと思う作品はわずかである。あれらは総じて“圧縮された作品”というイメージである。要するに、極限まで言葉を磨いてきちんと小箱に入るように仕立てた作品だと感じる。むしろ「投げっぱなし」怪談は凄まじく荒っぽく大雑把に削られた印象が強いし、実際情報量は文字数以上に少ないと感じることが多い(かといって文章が下手というわけではなく、むしろストレートに内容が把握できるような言葉を選ばなければ、読者の想像力を喚起することは難しいので、熟達した文章技量は必要である)。単純に文字を削って短くしたものとは、スタイルの概念が異なると考えた方が良いと思う。

「投げっぱなし」怪談のスタイルで全編編まれた実話怪談集というのは、いわゆる商業ベースの刊行本では今のところお目に掛かったことはない(との記憶である)。敢えて限りなく近い作品を挙げるとするならば、吉田悠軌氏の『一行怪談』あたりになるだろう。タイトル通り、まさしく一行で完結する怪談(ただし創作)がずらりと並んでおり、掌編をも上回る究極的な短さの作品を味わうことができるだろう。
吉田悠軌『一行怪談1』(PHP文庫)
吉田悠軌『一行怪談2』(PHP文庫)
ただこれが「投げっぱなし」怪談の本質かと問われると、また違うというのが正直なところである。写実的ではあるが、どちらかと言うと、“書かれていない行間を読む”という俳句的な味わい方に近いのではないだろうか。勿論そういう部分も「投げっぱなし」怪談にはあるが、やはりその最大の醍醐味である“一瞬で既成概念をひっくり返すようなある種破壊的な強烈さ”を堪能するには、作品集に時折差し挟まれる1ページだけの作品を見つけて読むしかないかもしれない。

「投げっぱなし」怪談の実践的分類

ということで、「投げっぱなし」怪談のいくつかパターンを挙げてみた。実際には作家の皆さんの方がもっとたくさんの引き出しを持っていると思うが、一応大まかな概念把握のための指針として見ていただきたい。

インパクト型

おそらくこれが「投げっぱなし」怪談の最も核心部分であると思う。
具体的に言えば、とんでもなく得体の知れないものを目撃した時、その様態を写実的に表現してオチとしてドンと置いてやる。おおよそこれだけで十分な実話怪談として成立する。細かな注釈や説明を抜きにして、単純に「あったること」としての怪異そのものを描写してオチにすれば、誰がどう言おうと怪異になり得るレベルの内容を表現するのに、「投げっぱなし」怪談は最も適している。言うなれば、怪談蒐集家が泣いて喜ぶほど稀少で強烈なインパクトを残すことができる素材を、できるだけ弄らず真正面からぶつけた作品と言える。
ただしこの種の「投げっぱなし」怪談は怪異のネタが極上だからこそ成立する作品である。書き方の技術云々よりも、まず「引き」の強さ、人脈や運の強さが求められるのは言うまでもない。

置き去り型

渾身の怪異で読者をアッと言わせ、溜飲を下げさせるインパクト型とは対極にある印象をもたらすことになる。言うなれば、読者を困惑の極みに落とし込んで、そのまま話が終わってしまうのが理想のパターンになるだろう。もう少し具体的に言えば、書かれてある内容は理解できるが、なぜ最後にそのような状況になってしまうのか理解に苦しむような話。あるいは矢継ぎ早に怪異は展開するが、最後まで要領を得ずモヤモヤが残ってしまうような話などである。どちらかと言うと、読者に対して何かしらの不安感を想起させることが目的となっていることが多いように思う。
ネタとしては、「あったること」だけを丁寧に書いたら最終的に理解不能な結末になってしまうケースもあり、逆に作者自身が故意に読者にトラップを仕掛けて混乱させて話を面白くさせるケースもある(どちらかと言うと、ネタとしてありきたりであるが故に敢えて書き方で変化をつけようという意図がある場合が多い)。ただこの型の場合、“物語の破綻”という危険が潜んでいることもあり、下手に意図的な混乱は避けた方が無難かもしれない。また物語の構成上、怪談に精通した人間ならその真意を汲み取れるという内輪受けで終わってしまう作品もあるので、ビギナーにとっては二重に分かりにくい内容になってしまうきらいもある。

謎掛け型

上の2つの型が、ネタ的に「投げっぱなしにすべきである」という流れから始まるのに対して、第3の型は作者が意図的に投げっぱなしの型にはめ込んでいくことが多い。要するにわざと細かい説明や独自の解釈を省く、敢えて怪異の核心部分をぼかすなどの技巧を使って、読者に対して考える機会を作ろう、解釈を委ねようとしている。「怪異に意味を持たせることを避ける」のである。
特に平成以降の実話怪談は「あったること」を「あったること」として書く傾向が非常に強いので、敢えて読者に解釈の余地を残すケースが多い(昭和の実話怪談と呼ばれるものは、それに対して恣意的なぐらい作者の意図が見え隠れしている)。この目的のために余計な贅肉を削ぎ落とす過程で、作家が思いきって掌編を超える短さに内容を刈り込んでいくのが、この第3の型である。
どちらかと言うと、長目の内容を圧縮に圧縮を掛けて密度の濃い作品になったりすることも多いし、数行というのではなく数ページ程度の長さになるケースも多いように思うので、ある意味「投げっぱなし」怪談の概念と外れているようにも感じるが、敢えて挙げておく。